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大会企画 特別講演

行動経済学とナッジ

日 時:8月25日(土) 13:20 ~ 14:20
場 所:大阪大学人間科学部 本館51講義室(キャノピーホール)
企画者:日本応用心理学会第85回大会委員会
司 会:臼井 伸之介 氏(大会委員長)

講師 大竹 文雄 氏

(大阪大学大学院経済学研究科 教授)


【目的】
 本講演では,損失回避、現在バイアス,社会的選好,限定合理性などの行動経済学の主な概念を解説した上で,それを公共政策に応用するナッジについて紹介する。「ナッジ」は選択を禁じることも,経済的なインセンティブを大きく変えることもなく,人々の行動を予測可能な形で変える選択アーキテクチャーのあらゆる要素を意味する。特に,労働,医療,財政など様々な分野におけるナッジの例とナッジの設計方法について説明する。

【行動経済学の概要】
 伝統的経済学では,計算能力が高く,情報を完全に利用し,利己的で合理的な意思決定ができる主体として人間を考えて,理論的枠組みを作ってきた。これに対し,行動経済学は,心理学や社会学の成果を経済学に取り入れ,より現実的な人間を前提にすることで,経済学の枠組みを広げてきた。特に,数学的なモデルに取り入れやすい損失回避,現在バイアス,社会的選好については,経済学の主要な教科書でも説明されており,主流派経済学の分析枠組みに入ってきたと言える。
 損失回避は,参照点と比較して利得と損失を感じ,利得よりも損失を大きく評価するという非対称性と損失局面でリスク愛好的になるという特性をいう。現在バイアスは,遠い将来の間の時間割引率よりも近い将来の間の時間割引率が高いことを言う。その結果,遠い将来については忍耐強い計画が立てられるが,それが近づくと先延ばしすることになる。社会的選好については,利他性,互恵性,不平等回避などに加えて,社会規範に従うということも含まれる。

【ナッジ】
 行動経済学の知見を用いて,選択の自由を確保した上で,合理的意思決定に近づける仕組みをナッジと呼ぶ。伝統的経済学では,税金・補助金による金銭的インセンティブを通じて,外部性を減らすような政策を提案してきた。法律学では,規制と罰則による介入が行われてきた。これに対し、行動経済学の知見を生かすと、大きな費用をかけないで,公共政策的介入が可能になる。
 例えば,老後の貯蓄を増やすために,確定拠出型年金への自動加入をデフォールトにするという政策は,老後の貯蓄をするという計画を立てることはできるが,それを先延ばしにするという現在バイアスという行動経済学的特性を,デフォールトに影響されるという行動経済学的特性によって,バイアスを修正するというものである。この場合,確定拠出型年金からの脱退手続きが非常に簡単であれば,選択の自由は確保されている。

【財政学への応用】
 伝統的経済学において,政府の主な仕事は,外部性,公共財,情報の不完全性による市場の失敗を修正することである。排気ガスのために二酸化炭素が多くなり,地球温暖化が進むという場合,二酸化炭素を排出する企業に排出量に応じて課税したり,石油に課税したりするというのがその例である。また,失業保険制度が民間で成り立だないのは,失業の可能性が高い人しか加入しないため,保険料が高くなり,保険料が高くなると,さらに失業の可能性が高い人しか加入しない,という逆淘汰が発生するからである。そのため、強制加入型の公的な失業保険が必要となる。しかし,失業保険が充実すると失業してもまじめに求職活動をしない人が発生する。失業給付をもらうために失業を選ぶということが生じる。伝統的経済学では,このような人たちの行動を抑制するために,早期に再就職できればボーナスを支給するというインセンティブを組み込むことを提案したり,失業給付の申請手続きを面倒にしたりすることも提案される。
 ところが,行動経済学では,このような仕組みが失業者の再就職を必ずしも早めない可能性が指摘されている。失業者が再就職活動を熱心にしないのが,彼らが怠けているのではなく,強い現在バイアスをもっているために先延ばししていることに根ざしていると考える。そうであれば,先延ばしそのものを難しくさせるような,失業者へのリマインダーや再就職活動のチェックが有効な対策になる。失業給付への申請を行わないのが,深刻な失業ではないことを意味するのではなく,状況が深刻で面倒な申請手続きをすることができなのかもしれない。もし,そうであれば,失業保険をはじめとする社会保障のあり方を大きく変える必要がある。

【労働経済学への応用】
 伝統的経済学では,男女間賃金格差は、企業間競争が激しければ縮小していくと考えられてきた。もし,生産性が男女で同じであるのにも関わらず,差別意識をもった経営者が多いために,女性の賃金が男性よりも低かったとしよう。この場合,差別意識のない経営者は,低い賃金で女性を雇用することで,高い利潤を得られる。すると,差別意識のない経営者は,市場競争で勝ち残ることになり,男女間賃金格差は解消することになる。
 しかし,リスクへの態度,競争への好み,自信過剰の程度に男女差があれば,昇進競争の男女格差はなくならない。この場合には,格差解消のための行動経済学的な介入手法が有効になる。
 伝統的な経済学では,労働者は自分だけの賃金から効用を得ると想定されていたし、損失回避もないと考えられていた。しかし,労働者が不平等回避や損失回避をもっているのであれば,それを前提に賃金制度設計する必要がある。

【医療への応用】
 伝統的経済学では,医者も患者も与えられた情報のもとで最善の治療法の選択をすると考えられてきたので,患者に情報を提供して意思決定させればよいというインフォームドコンセントが行われてきた。
 しかし,医者や患者の意思決定に行動経済学的なバイアスがあるのであれば,それを修正するようなナッジを政策的に用いることが望ましい。また,健康診断を受けない人や生活習慣病を発生させやすい生活習慣をもっている人の行動を変容させるためには,行動経済学的な介入が有用であろう。

【寄付・ボランティア活動への応用】
 伝統的経済学では,利己的個人を前提にしていたため,寄付行動の分析は税制上の優遇措置という金銭的インセンティブを用いるものだけであった。しかし,利他的動機をもっていたり,社会規範からの影響を受けたりする人間を前提にすれば,寄付行動やボランティア行動の促進策に行動経済学的アプローチは有効になる。

(おおたけ ふみお)