心理学諸領域から交通安全を斬る
日時:8月26日(日) 13:00 ~ 14:30
場所:大阪大学人間科学部 本館51講義室(キャノピーホール)
司 会 者:中井 宏 氏(大会事務局長)
話題提供者:大谷 亮 氏(一般財団法人日本自動車研究所)
話題提供者:小菅 英恵 氏(公益財団法人交通事故総合分析センター/筑波大学大学院)
話題提供者:島崎 敢 氏(国立研究開発法人防災科学技術研究所)
指定討論者:志堂寺 和則 氏(九州大学大学院システム情報科学研究院)
【趣旨】
中央新幹線(リニア)や自動運転車に関する報道が増え,我々を取り巻く交通環境は大きな転換期を迎えている。第85回大会を開催する大阪大学人間科学部では,前身の文学部時代から数え60年を超えて交通心理学の研究が行われてきたことを踏まえ,道路交通に焦点を当てたシンポジウムを企画した。
安全な交通社会の実現には,道路環境や車両の技術革新,法整備はもとより,道路を利用する人間に対する心理学的知見の蓄積や介入が重要である。また,交通行動は誰にとっても生活に密着したものであるため,心理学が扱うほとんど全ての領域と関係している。本シンポジウムを通じ,安全な交通社会の実現に向けて心理学が果たしうる役割について,参加者と議論を深めたい。まず,3名の若手研究者の視点から交通安全に関する心理学的な話題提供をお願いし,応用心理学者が交通問題に取り組む切り囗について議論していく。またシンポジウム後半には話題提供者・指定討論者のみならず,参加者それぞれのご専門の立場から交通安全に貢献するアプローチ手法などを検討する時間を設け,応用心理学が安全・安心な交通社会の実現にどのように寄与できるかを皆で考えたい。
【話題提供】
「子どもの交通事故低減に向けた安全対策 ━ 心理学的観点からのアプローチ ━」
大谷 亮
1.背景
日本の道路交通の現状を見ると,近年では自動車乗車中よりも歩行中の事故死者数が上回り,特に7歳児の死傷者が最も多い状況となっている。また,歩行中の子どもの交通事故原因として,飛び出しの割合が高い傾向が示されている(公益財団法人交通事故総合分析センター,2017)。
子どもの交通安全確保に資する研究と取組みは,交通心理学の領域においても検討されており,これまでに多くの研究成果が得られている。
本稿では,子どもの交通事故低減に向けた安全対策について,心理学的観点からのアプローチを紹介するとともに,今後の課題について概説する。
2.事故低減に向けた諸策
事故低減に向けた対策として,いわゆる4E(Engineering, Enforcement, Example, Education)もしくは,環境(Environment)を含めた5Eに焦点が当てられることが多い。子どもの交通事故低減に向けた対策についても同様であり,心理学に関連する諸策が講じられている。
工学的対策(Engineering)として,事故低減や被害軽減などを目的とした先進安全運転システムや自動運転などの技術の進展が期待されている。子どもを含む歩行者との衝突回避や被害軽減のための自動車システムも開発されており,ドライバーに歩行者との衝突の可能性を伝えるための情報伝達方法に関する研究・開発が進められている。 ドライバーへの情報伝達方法は,Human Machine Interface (HMI)の枠組みの中で検討されており,気づき易く理解のし易い情報伝達方法や,システムに対する適切な信頼感を確保するための研究として,人間の感覚・知覚,認知心理学的観点からの検討が実施されている(大谷, 2008)。
強制・規制対策(Enforcement)としては,道路交通法などの規則に対する子どもの遵法精神に関する研究や,規則に関する認識の発達的変化を調査した研究が見られる(斉藤, 1975)。また,学校周辺などのゾーン20の規制の効果に関する検討(Li & Graham, 2016)も,子どもの安全を確保する上で重要な課題となっている。
環境対策(Environment)としては,イメージハンプを用いることで,子どもを含む歩行者が利用する横断歩道付近の車両の速度を低減することを企図した対策が講じられている。イメージハンプは,錯視現象を利用した安全確保の例であり,感覚・知覚心理学の成果の応用と言える。また,集団登下校時の事故が社会問題となった際に,地方公共団体などで通学路の点検が交通工学などの観点から実施されたが児童の知覚や認知の発達などの視点からの点検も今後求められる。さらに,子どもを対象にした見守り活動は,交通安全の他,防犯の点からも重要な環境対策であるが,見守り活動を持続的かつ効率的に実施するための枠組み作りとして,組織心理学的な検討も必要となる。
事例対策(Example)では,道路横断時の他の歩行者行動が及ぼす影響に関する社会心理学的研究(北折・古田, 2000)や,保護者などがモデルとなる子どもの模倣学習に関する研究(Morrongiello & Barton, 2009)などが安全対策に寄与すると考えられる。
以上の対策は,子どもに関わる周囲の人間や周辺環境に目を向けた対策であるが,子ども自身が安全に対する適切な知識や態度を有さないと,根本的な解決とはならない。この点から,子どもの発達段階に応じた教育プログラムの開発やその効果の検証に関する研究が実施されている(大谷, 2016)。これらの教育的対策(Education)に関する研究は,一部の地域などで限定的に行われることが多いため,結果の妥当性や信頼性を検討するための検討を行い,効果に影響を及ぼす一般的な要因を抽出することが重要である。
3.今後の課題
子どもを対象にした交通心理学の研究課題としては,上記のように事故や被害の低減に向けた対策に資する研究が中心であった。しかしながら,交通事故低減の他にも,子どもと交通に関する課題が存在する。例えば,英国では,防犯などの観点から保護者が子どもを学校に送迎することによる交通渋滞や子どもの肥満などの問題が顕在化し,登下校時の交通モード選択に関するSchool Travel Plan と呼ばれるプロジェクトが実施された。日本においても,少子化に伴う学校の統廃合により,学区が広くなることで,保護者が送迎することによる同様の問題が生じる可能性がある。また,保護者の送迎により危険な状況を子どもが学習する機会や,いわゆる情操教育の可能性が減少することによる影響も,心理学的観点から長期的に検討する必要がある。
また,事故の被害者もしくは加害者となった子どもへの心理的なサポートに関する研究は多くはなく,今後,臨床心理学的観点からのアプローチが求められる(藤田・柳田・横山,2001)。さらに発達障害児を対象にした交通安全教育もしくは安全管理,さらには発達障害児の移動の自由を確保する際の心理学的な課題は,その後の免許取得の問題も含めて検討する必要がある。
4.まとめ
安全は人間の基本的な欲求であり,将来を担う子どもの安全確保は社会にとって重要な課題であると考えられる。しかしながら,子どもの交通安全確保に関する関心は必ずしも高くはなく,心理学的観点からのアプローチが注目される機会も少ない。今後,交通の領域に留まらず,総合安全の観点から子どもの事故低減に向けた研究を進めるとともに,いわゆる人間教育としての交通教育の可能性を検討して,社会的関心を得ることが重要になると推察される。
<引用文献>
・藤田悟郎・柳田多美・横山恭子 (2001). 交通事故被害者の心的反応と心的ストレスの予測要因.上智大学心理学部年報, 25, 57-66.
・北折充隆・吉田俊和 (2000). 記述的規範が歩行者の信号無視行動におよぼす影響.社会心理学研究, 16(2), 73-82.
・公益財団法人交通事故総合分析センター(2017). 特集 小学一年生が登下校中に遭った死傷事故.イタルダインフォメーション, 121.
・Li, H. & Graham, D.J. (2016). Quantifying the causal effects of 20 mph zones on road causalities in London via doubly robust estimation. Accident Analysis and Prevention, 93, 65-74.
・Morrongiello, B.A. & Barton, B.K. (2009). Child pedestrian Safety: Parental supervision, modeling behavior, and beliefs about child pedestrian competence. Accident Analysis and Prevention, 41, 1040-1046.
・大谷亮 (2008). 安全性と受容性の観点からみた車室内インタフェースの考え方.自動車技術, 62(12), 71-76.
・大谷亮 (2016). 第1章 効果的な交通安全教育のために 大谷亮・金光義弘・谷口俊治・向井希宏・小川和久・山口直範 (編) 子どものための交通安全教育入門 ― 心理学からのアプローチ ―.ナカニシヤ出版 3-12.
・斉藤良子 (1975). 子どもの交通規則に対する意識の発達.科学警察研究所報告交通編, 16(1), 26-33.
「発達障害児・者の交通事故リスク:ADHDの注意特性に関する基礎的研究を中心として」
小菅 英恵
1.ADHDと交通事故の死傷リスク,交通行動の特徴
注意欠如・多動症/注意欠如・多動性障害(Attention-Deficit / Hyperactivity Disorder, 以下ADHD)は,診断基準のグローバルスタンダードであるDSM-5(American Psychiatric Association, 2013)において,神経発達症群/神経発達障害群(Neurodevelopmental Disorders)に分類される“発達障害”である。「日常生活および社会生活のなかで支障をきたすほどの多動性・衝動性,不注意またはそのいずれかが持続している状態」「一般的には,多動性・衝動性は青年期早期までに軽減するが,不注意症状はしばしば成人期まで持続する」臨床像で説明される(高橋ら, 2015)。
歩行事故の統計をみると,発達障害は定型発達に比べ死亡リスクが高く(Strauss et al., 1998),定型発達と比較した論文のメタ分析においても,ADHDの交通行動の危険性は有意に高い(Jerome et al., 2006)。ADHD児・者は,歩行・横断時の行動では,変動性の高さ(Clancy et al., 2006)や危険性の高い横断環境の選択(Stavrinos, 2009),自転車運転では,不適切なタイミングの道路進入(Nikolas et al., 2016),自動車運転では,操縦の変動 (Barkley & Cox, 2007; Barkley et al., 1996)や単調な運転時の衝突率の高さ(Biederman et al., 2007)などが報告されている。
発達障害の交通場面を含む日常生活上の困難は,中枢神経系の機能不全といった生物学的要因が基盤である。心理学では,人間の交通行動について交通システムの中に存在する人間と環境の齟齬による人間側の失敗,すなわちヒューマンエラーからのアプローチがあり,ここでは,ヒューマンエラー発生や行動制御の重要な働きを担う人間の”注意”に焦点をあてる。
2.安全な交通行動を導く情報処理と注意の関係
人間か時々刻々と変化する交通環境の中で安全に行動するには,その状況の要求や行動目標に応じて,情報を入力-処理一出力といった情報処理過程を繰り返し,その結果適切な行動の選択・遂行が求められる。“注意”は,この情報処理過程を促進させる役割をもち「フィルター」と「注意資源」のメタファーで説明される(Wikens & McCarrley, 2008)。人間の情報処理には限界があるため,外界に存在する全ての情報を収集することはできない。そこで「フィルター」によって膨大な情報の中から必要な情報の取捨選択を行なう。また一度取り入れた情報を知覚や認知など機能させるには,動かすための燃料「注意資源」が必要となる。注意資源の容量には限界があるが,人間は制約ある注意資源を各処理過程にうまく配分することで,交通場面において衝突対象を発見し,その後の状況の危険性を予測し,交通事故発生を回避する行動の遂行などが可能となる。
3.空間移動におけるADHDの注意特性
我々は,主体的,目的志向的に空間内を移動するが,その際,ある空間的位置から別の空間的位置への注意移動が関わる。ここでは注意のこのような側面を「空間的注意」と呼ぶ。Kosuge & Kumagai(2016)は,空間的注意に関連した注意切替課題と変化検出課題を設定し,大学生を対象としたADHD傾向者の各課題成績を検討した。結果,ADHD傾向の特徴として,部分時報から全体情報への反応は早まるが全体情報から部分時報へ注意を切り替える際に平均反応時間か遅延すること,消失変化の無答率が高いことを明らかとした。
また小菅・熊谷(印刷中)は,同様の手続きによって, ADHD傾向(H群/L群)×各課題の成績(高/低)×自己評価による移動時注意不全尺度(小菅・熊谷, 2017)の下位尺度得点(制御不全/変更機能不全/覚醒水準の低下/転導性)の関連性を検討した。結果,ADHD傾向者の移動時の注意不全と変化検出課題の成績との関係が明らかとなった。
変化検出には持続的注意の働きが示唆されている(中島・横澤, 2014)。またSergeant(2000)はADHDの注意不全をa.情報処理過程,b.心的努力(effort)のエネルギー面,c.実行機能といった管理面からモデル化し,情報処理全体の効率性から説明している。
成人ADHD傾向者は,移動時にうわの空や見るべきものから注意が逸れる傾向を示すが,その心理的背景には,交通環境に視覚的に注意を定位し続ける心的努力(effort)の困難さがあり,その結果,交通環境内の消失変化の見落とし・追加変化検出のエラーや発見の遅れが示唆される。
4.安全な交通社会の実現に向けて
(1)発達障害を取り巻く社会と交通安全対策の必要性
障害者にとって自動車運転免許の取得は,移動範囲の拡大や余暇活動の充実だけでなく,就労とも関わる(田中, 2014)。近年,発達障害者の自動車運転免許取得のため,教習所での支援が展開されはじめている(梅永, 2018)。今後,発達障害のモビリティとその問題は,より社会的な関心が高くなるだろう。
一方,発達障害の交通事故リスクは高く(e.g. Strauss et al., 1998),障害特性によりモビリティに困難をきたすと考えられる。我が国の交通安全対策は高齢者問題が喫緊の課題として挙げられてはいるが(内閣府, 2018),発達障害児・者を対象とした社会的な交通安全対策は急務と言える。
(2)基礎研究に根差した「交通」の学際研究の重要性
発達障害児・者の交通安全対策を検討するには,心理学だけでも,認知・発達・臨床・交通・産業・リスク…など複数領域が関わり,現場での実践活動では,学校・行政・地域・医療・福祉…など多分野との連携が必須となる。
交通“現場”で生じる問題の科学的解決には,人間のこころの法則を解き明かす基礎研究の知見の活用が不可欠である。今後,より一層の基礎心理と応用心理の連携が望まれる。
また「交通」が扱うテーマは安全だけでなく,交通文化の差や経済活動など極めて多岐にわたり,工学,医学,教育学,社会学,行政学などにも関わる。交通心理学が積み上げた科学的知見を「交通」諸問題の解決で活用するためには,心理学が積極的に多領域と協働していく姿勢が必要と考える。
<引用文献>
・American Psychiatric Association. (2013). Diagnostic and statistical manual of mental disorders (DSM-5 ®). American Psychiatric Pub.
・Barkley, R. A.,& Cox, D. (2007). A review of driving risks and impairments associated with attention-deficit / hyperactivity disorder and the effects of stimulant medication on driving performance. Journal of safety research, 38(1), 113-128.
・Barkley, R. A., Murphy, K. R・, & Kwasnik, D. (1996). Motor vehicle driving competencies and risks in teens and young adults with attention deficit hyperactivity disorder. Pediatrics, 98(6), 1089-1095.
・Biederman, J., Fried, R., Monuteaux, M. C., Reimer, B., Coughlin, J. F., Surman, C. B., Aleardi, M., Dougherty, M., Schoenfeld, S., Spencer, T. J., & Faraone, S. V. (2007). A laboratory driving simulation for assessment of driving behavior in adults with ADHD: a controlled study. Annals of General Psychiatry, 6(1), 4.
・Clancy, T.A・, Rucklidge, J. J., & Owen, D. (2006). Road-crossing safety in virtual reality: A comparison of adolescents with and without ADHD. Journal of Clinical Child & Adolescent Psychology, 35(2), 203-215.
・Jerome, L., Segal, A., & Habinski, L. (2006). What we know about ADHD and driving risk: a literature review, meta-analysis and critique. Journal of the Canadian Academy of Child and Adolescent Psychiatry, 15(3), 105・
・Kosuge. H. & Kumagai, K. (2016). Relation between the adult ADHD tendency and the attentional function for the daily behavior on the traffic scene, 31th International Congress of Psychology, Yokohama.
・小菅英恵・熊谷恵子 (2017). 運転時・歩行時の注意不全尺度の作成と信頼性・妥当性の検討.障害科学研究, 41(1), 23-32.
・小菅英恵・熊谷恵子 (印刷中). 移動時の注意不全に及ぼす空間的注意の影響:成人ADHD傾向者を対象として,日本交通心理学会第83回大会発表論文集.
・中島亮一・横澤一彦 (2014). 画像シフトによる変化の見落としにおける持続的注意の役割。心理学研究, 85(6), 603-608.
・内閣府 (2018). 平成 29 年版交通安全白書. http://www8.cao.go.jp/koutu/taisaku/h29kou_haku/index_zenbun_pdf.html#h28
・Nikolas, M. A., Elmore, A. L., Franzen, L., O’neal, E., Kearney, J. K., & Plumert, J. M. (2016). Risky bicycling behavior among youth with and without attention-deficit hyperactivity disorder. Journal of child psychology and psychiatry, 57(2), 141-148.
・Sergeant, J. (2000). The cognitive-energetic model: an empirical approach to attention-deficit hyperactivity disorder. Neuroscience & Biobehavioral Reviews, 24(1), 7-12.
・Stavrinos, D. (2009). Predictors of pedestrian injury risk in children with attention-deficit / hyperactivity disorder, combined type. The University of Alabama at Birmingham.
・Strauss, D., Shavelle, R., Anderson, T. W., & Baumeister, A. (1998). External causes of death among persons with developmental disability: the effect of residential placement. American Journal of Epidemiology, 147(9), 855-862.
・高橋有記・大西雄一・松本英夫 (2015). 発達障害について. ストレス科学研究, 30, 5-9.
・田中敦士 (2014). 自動車教習所における知的障害者への教習実態. Asian Journal of Human Services, 7, 72-85.
・梅永雄二 (2018). 発達障害と自動車運転能力.IATSS Review, 42(3), 193-202・
・Wickens, C. D. & McCarley, J. S. (2008). Applied Attention Theory. Boca Raton: CRC Press.
「お得な防災行動と褒めて伸ばす安全運転 ━ 安全な行動を誘発する心理学的アプローチ ━」
島崎 敢
交通心理学はドライバーを始めとした交通参加者の行動や,その背後にある心的メカニズムを解明する多くの知見を残してきた。これらの研究成果は,運行管理者や政策決定者など,交通参加者に安全な行動を取らせたい立場の人々にも,指導や施策検討のための一定のヒントを与えてきたと言えるだろう。 しかし,安全研究の最終的なアウトカムであるリスク低減を実現するためには,メカニズムの解明だけでは不十分であり,人を対象とした安全研究の分野では,適切な行動を増やし,不適切な行動を減らすような行動変容が必要である。しかし,交通心理学の分野では,安全教育の研究は盛んではあるが,人々の学習のメカニズムに着目し,強化子を用いて行動を変容させようとした研究はあまり多くない。
オペラント条件づけに関する一連の研究では,正の強化子が与えられること,または負の強化子が与えられないことは行動を強化し,負の強化子が与えられること,または正の強化子が与えられないことは行動を弱化することが知られている。また,オペラント行動の強化スケジュールに関する研究では,学習の頻度は高いほど,強化子の出現は行為の直後であるほど学習が進むことがわかっている(例えば岩本・高橋,1988)。
これを交通に当てはめると,事故に遭ったり,警察に取り締まられたりすることは,不適切な行動に対する負の強化子であろう。この場合,強化子が与えられるのは行為の直後であり,タイミングは適切であるが,事故や取り締りの頻度は学習を成立させるには不十分かもしれない。また,無事故者に対する保険料の引き下げや,ゴールド免許の付与などは,適切な行動に対する正の強化子であるが,こちらも強化子の頻度が低い上に,タイミングが行為の直後ではないという問題がある。
防災の分野でも適切な行動の獲得は困難な状況にある。日本は災害大国であるが,災害に対するハードウェア対策も進んでおり,台風や地震などの自然現象の強さが中程度までなら,人々の生命や財産が直ちに危機に陥る可能性は低い。災害に対して個人が行う適応行動として,家屋の補強,家具の転倒防止,食料の備蓄,安全な場所への避難などが挙げられるが,これらの行動は地震が起きるたびに,また避難勧告が発令されるたびに,ほとんどの場合は特に困ったことが起きない,いわゆる「空振り」の経験となる。これは安全という観点からは望ましいことではあるが,学習による行動変容の観点からは,正の強化子が与えられないことによる行動の弱化に他ならず,適切な行動は常に消去圧力にさらされることになる。
これらの背景から筆者は,防災にせよ交通にせよ,適切な行動を喚起させるための高頻度な正の強化子が必要ではないかと考えている。渡ろうとしている高齢者に道を譲った,行政の指示を待たずに早めに避難所に避難したなどの望ましい行動に対して,たとえ価値は小さくとも,高い頻度で正の強化子が与えられることは,スピードを出しすぎて事故に遭った,避難情報を無視して危険な場所に取り残されたなど,インパクトは大きいが頻度の非常に低い負の強化子が与えられることよりも,適応した行動を獲得するのに有効であろう。
また,行動変容を促す手段として,近年行動経済学の分野で注目を集めているNudgeの概念(例えばThaler & Sunstein, 2008)にも着目している。Nudgeの単語としての本来の意味は「ひじで軽く突く」であるが,行動経済学の分野では,人々の行動選択の特徴をうまく利用して,禁止や強制を行わずに人々の行動を適切な方向に導く方法という意味で用いられている。具体的には不健康なジャンクフードを禁止しなくても,果物や野菜などの健康に良い食品を目の高さに陳列するような工夫をすれば,健康的な食品が選択される可能性が高まり,人々をより健康にできるとする考え方である。こういった手法は,交通行動の選択にも利用できる可能性があると考えられる。
このシンポジウムでは,交通や防災の分野で正の強化子やNudgeを利用して行動変容を試みたいくつかの研究事例や実践事例を紹介するとともに人々の行動を安全な方向に変容させるにはどうすればよいかを,他のパネリストやフロアの皆さんと一緒に考えていきたい。
<引用文献>
・岩本隆茂・高橋雅治(1988). オペラント心理学その基礎と応用.勁草書房.
・Thaler, R. H. & Sunstein, C. R. (2008). NUDGE Improving Decisions About Health, Wealth, and Happiness, Yale University Press, New Haven & London.
【話題提供者】
大谷 亮(一般財団法人日本自動車研究所主任研究員) 2002年中京大学博士後期課程卒,同年現職に就く。発達・教育心理学に基づく子どもの交通安全や,自動運転のHMIなどの自動車人間工学が専門。近年は,質的研究にも関心があり,発達障がい児の交通問題に着手。博士(心理学)。応心会員。 |
小菅 英恵(公益財団法人交通事故総合分析センター研究員/筑波大学大学院人間総合化学研究科博士後期課程) 2004年立正大学応用心理学コース修士課程修了。ヒューマンエラーの発達的特徴や日常場面の安全適応に興味を持つ。現在,高齢者と発達障害者の認知機能の質的差異の研究,および交通事故防止の心理学的分析に携わる。修士(文学)。応心会員。 |
島崎 敢(国立研究開発法人防災科学技術研究所特別研究員) 1999年静岡県立大学卒,トラックやタクシーのドライバーを経て早稲田大学で博士学位を取得。同大助手,助教を経て現職。心理学を使って安全を実現するための研究を交通・災害・医療などの分野で幅広く展開。博士(人間科学)。応心会員。 |
【指定討論者】
志堂寺 和則(九州大学大学院システム情報科学研究院教授) 1992年九州大学大学院文学研究科心理学専攻博士後期課程単位取得退学。九州大学助手,長崎大学講師,九州大学助教授,准教授を経て現職。現在の関心領域は,交通問題,ヒューマンインタフェース等。博士(文学)。応心非会員。 |